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生涯美術論実践 (社団法人富山県教育会)

生涯美術論実践

高岡第一高等学校
松尾 豊


―――パブリックアート研究が切り開いた美術教育の方向と実践―――

平成17年度・第55回「教育に関する研究助成」論文
社団法人富山県教育会 2006年2月

 

I.はじめに(背景・動機・目的)

 日本へは1980年代後半に移入されたパブリックアート用語が、美術教師の間でもやっと認知されてきたのが富山県美術界の昨今の現状でなかろうか。パブリックアート(1)の先進地アメリカでは、フィラデルフィア市のパーセント・フォー・アートプログラム(2)政策と連動して1960年代初頭にこの用語が登場したといわれる。
 その後発国日本では、パブリックアート前史として野外彫刻・屋外彫刻・公共彫刻等が先行するが、面白いことに富山県では、1954(S29)年の段階で、すでに「野外彫塑」なる言葉を文献上確認できる。『富山産業大博覧会誌』によれば、郷土の先人彫刻達により、白色セメントの普及や野外空間における彫刻の可能性を提案していた(3)ことは、驚きを伴う一種の特筆事項である。
 そもそも筆者が、広義のパブリックアートと解釈可能な野外彫刻の調査研究を開始したのは、出身地新潟県での拙著出版(4)の確約以前の1986(S61)年12月頃と記憶している。その後、縁あって高岡第一高校に赴任したが、その当初から自分の思いは生徒に伝え残したいと考え、研究成果の一端をスライド鑑賞などの形で生徒に還元し続けたのは明白な事実である。つまり、拙著出版前から、自己の調査研究が個人的興味を超えて、美術教育にも必ずや有益になると確信していたことも、拙著のあとがきからでも判別可能であろう。それ故に、パブリックアート研究とその授業還元の継続的模索が、必然的に生涯美術論構想の構築へ導いたと考えている。
 加えるなら、上記研究経過や個人的思いとは別の時代背景の影響も存在した。1980年代初めは「地方の時代」や「文化の時代」が叫ばれ出し、その後半から90年代にかけてはバブル経済の隆盛・頂点・下降の時間的推移があり、その流れと呼応するかのような「彫刻のある街づくり」「パブリックアート」「生涯学習社会」の登場が、アートのおかれたもう一つの重要な局面であった。従って、筆者の継続的研究と授業実践の複合的重層が、パブリックアート研究を発展させ、その美術教育との接点が地域文化継承の授業実践を必然化させ、生涯美術論構想による高校美術教育の再構築を志向させた。更に、その成果発表に基づく外部の公的機関によるいくつかの評価(5)が、本稿執筆の最大の動機となった。
 この拙稿は、現任校である高岡第一高等学校における約20年間の教育実践の中でも、パブリックアートの生涯学習版としての美術教育実践(平成17年度の総合学習も含む)の整理を第一の目的とし、高岡第一高校という枠にのみ嵌らない高等学校芸術科美術としての今後の可能性を展望することを第二の目的とする。

II.実践的経過へつづく



I.はじめに(背景・動機・目的)
II.実践的経過
 1)「野外彫刻と抽象彫刻」
 2)「地域文化と生涯美術」
 3)「フレンドパークのモニュメント」
 4)「高岡現代彫刻オリエンテーリング」
 5)総合学習「美の探訪(とマナー)」
III.おわりに(今後の方向)
Ⅳ.注及び引用文献

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