昨日UPの「ARTの公共性--成し遂げたい私の2つの天命」は、その研究や文献上の先進性を理由に「私の天命としての使命」と自負したのだが、本日2010年2月22日UPの内容は、必然的でその2つの天命を決定づけたも思える程、忘れたくても忘れられない出生地(新潟県の旧・村松町)や遠く離れていた出会いの地(兵庫県尼崎市)での巡り合せが背景の偉大な2人の紹介である。
私の出生地=現・新潟県五泉市は、平成の大合併以前は、(新潟県中蒲原郡村松町と称し)城下町の村松と川内村・大蒲原村・十全村・菅名村が合併してできた町。その村松町でも特に私の出生した旧・川内村は、山間部が多く、新潟県内でもかなり広い村だった。
つまり、偶然的巡り合せ(?)を背景にもつ偉人の1人は、私も産まれ育った川内村出身で、日本近代彫刻史上忘れてはならない羽下修三である。地元では「羽下大化」といわれ、戦前の東京芸大で高村光雲の指導を受け、その技量の高さで東京藝術大学の助教授を勤めた越後の鬼才であった。
新潟県内では、川内村の中川原地区で雪崩から主人を2度も救い出し有名になった柴犬<忠犬タマ公像>で知られている。私の川内小学校4年のとき、校長室にあったブロンズ像を中庭に出し除幕式をした記憶がある(今は、新校舎の玄関付近に移設)。羽下修三は、師・光雲の目にかなった仏師的木彫家であったが、塑造の能力もハイレベルで、羽下の弟子といわれた林昭三(村松公園と新潟駅新幹線コンコースの2箇所に<タマ公像>を制作・設置)や渡辺徹(新潟市白山公園内に<タマ公像>を設置、原型は20年ほど前に新潟市立西大畑小学校で確認)の残した<タマ公像>よりも優れていた。(彫刻を専攻した私の目で、そう判断できた。)
従って、私は生まれながらにして、日本の近代彫刻史上忘れ去られてはいた(或いは、意図的に消去されていた)が、文化資源学的にも貴重な作品や作家としての生き様(戦後は、東京芸大に戻らず新潟大学の講師をしながらも、清流の阿賀野川で釣りも楽しんでいた偉人)を残した羽下修三と深い因縁があった。だからこそ、毎日新聞社と交渉していた『20世紀の野外彫刻』を「明治以降の野外彫刻の可視化のための出版物」に変換し、文化資源学的な切り口で捉え直し、越後の偉人・鬼才としての羽下修三を日本近代彫刻史上に再評価したいのである。そういう背景があるからこそ、私がやるべき「天命としての使命」と結論付けた。
偶然的巡り合せ(?)を背景にもつもう1人の偉人は、高卒後新聞配達をしながら受験勉強する羽目になった兵庫県尼崎市で知り合った、パブリックアートの先導者との巡り合わせである。これも全く予知できぬことだったが、新聞配達の地に赴いた尼崎市内で、毎日新聞夕刊配達時に、1読者として出合った小林陸一郎先生である。
小林先生が尼崎在住のころは、「夙川女子短大の若き彫刻家で、行動美術展に木彫出品の先生」と思っていた程度だった。しかし、東京に出て「彫塑専攻」に籍を置き出した頃より、有名な「須磨ビエンナーレ」での野外彫刻展での受賞、増田正和・山口牧生・小林陸一郎の3人で結成した「環境造形Q」のグループ活動等で、作品上も理論上も「パブリックアート」と呼ぶにふさわしい領域をリードし続けた人と気づいた。当然、現代彫刻家や美術評論家などの高い評価を受けているが、夙川女子短大から京都精華大学に移り、彫刻制作以外にパブリックアート研究の行き着く先として、アートプロジェクトに関る教え子も育てている。つまり、小林陸一郎先生とは、松尾豊の「成し遂げたい天命」の2件中でも、1)「明治以降の野外彫刻の文献的可視化」、2)「アートプロジェクト研究」の両者に跨っており、偶然を超えた必然的にも思える巡り合せの存在である。
それ以降の来高後にも、私の拙稿執筆時のアドヴァイスや資料の郵送もいただいたりした。(この領域を「君が纏めるべき」と言われてるかのように、関西方面で出版の書物も無料でいただくような関係になった。)今もっても年賀状や電話でのやり取りもさせていただけるが、私にとっては、「作家論を認めるなら『小林陸一郎論』をやりたい」と思えるほどの認知度の高い作家である。偶然では無い、正しくも正真正銘の、有難い現代彫刻家との巡り合せであった。
従って、昨日UPの文献的業績の自負以外にも、この2人との巡り合わせという背景が加わり、尚一層「天命としての使命」を感じてしまうのである。(下の写真は、伊丹市役所前の「環境造形Q」の作品。別称「グループQ」は、メンバー3人中、現在は、小林陸一郎先生のみが存命である。)