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ヨコハマ、そして「アートの力」等への雑感(未発表)

ヨコハマ、そして「アートの力」等への雑感

 

一.ヨコハマへの雑感

 昨秋十一月に横浜へ行ってきた。横浜トリエンナーレの見学と本学会を含むシンポジウムへの参加と文化芸術創造都市を目指す横浜の街を散策するためであった。横浜の街を散策する理由は、主として、馬車道商店街(写真①)や伊勢崎モールなど全国の先駆的な地域再生事業として「パブリックアート」を設置し、新しい都市空間を創造したといわれるその景観をデジカメに納めたかったためである。且つ又、高校生や一般の高岡市民に横浜の変容の一端と都市づくりへの意欲を何らかの形で感じていただける手助けをしたかったためである。こんな欲張りな考えで高岡を夜行バスで出発した私は、翌朝六時,前に池袋に着き、朝食もままならないままJRと地下鉄を乗り継ぎ七時頃には馬車道通りに出ていたように記憶している。

 

 そもそも横浜と高岡の関係が、明治の初期と思いきや江戸末期の嘉永年間からかなり深いことが、私には気になっていた。日米修好通商条約締結前に銅器問屋の米屋久兵衛なる人物が横浜でアメリカ人相手に商売を始めたことや第九代角羽勘左衛門が、安政七年の横浜開港直後に英・仏人の注文に応じた高岡銅器の輸出に精を出していた記録がある(注1)。その角羽勘左衛門に至っては、近年「横浜をつくった男」などと大手民放系TVで取り上げられるほどで、今や出身地高岡市民より神奈川県民に認知度が高い著名人になっている。いわゆる横浜居留地貿易で高岡商人が、江戸時代に世界を相手に高岡銅器を始めとする日本の伝統工芸品を発信したばかりか、高岡銅器は、明治にはウィーンやシカゴやロンドンなど世界各地の万国博覧会で受賞を重ねたのも事実である。美術史家でもない私が言うのは傲慢そのものかも知れないが、これは日本美術史上世界から評価された二番目の例ではなかろうか。その一番目が言うまでもなく、江戸時代の浮世絵であり、二番目が明治初期の高岡銅器のように思える。この史実にも高岡商人のみならず、日本の画商あるいは昨今言われるキューレターの先駆け的な役割を果たした高岡人・林忠正も関っていたのはかなり知られているところである。 好きになりたくてもいまだ嫌いな高岡の宣伝を好んでするわけではないが、ここまで来ると、アートと横浜と高岡のこじつけが生じてしまう。加えるなら高岡市には、平成十七年十月富山大学芸術文化学部が誕生した。それもこういう、先人たちの横浜を通じた活躍があったからだとも思える。横浜貯留地という窓でいち早く世界を覗き見し、その洞察力で高岡銅器を輸出する逞しさは、排他的で沈滞していたこれまでの高岡市を思い浮かべると「現在の高岡人は、何をしとるのか、謙虚に学ぶ姿勢を忘れたのか」と、他県から来た私のような人間こそが辛辣に指摘してやらなければならないと自惚れる。

 

 しかしながら、横浜と高岡の関係を少し考えると歴史的にも芸術文化的にも一本の糸で繋がった切れない縁のようなものを感じる一方で、大学時代の四年間東京にいたにも拘らず、一度も横浜に足を踏み入れることがなかった分、高岡に来てからその回数が頻繁であることに気づく。今思えば、まるで可哀想な奴である。横浜は、明治維新で文明開化発祥の地と言われたことや有名な中華街(写真②)があることは知っていたが、貧乏人の私には、お金がなく足を伸ばせなかった理由があるのかもしれない。否、単に不勉強で、大学に入学しても何を勉強したら良いかも分からず、教官や大学に愚痴を言いながらも、学校と汚い下宿や寮をただただ往復を繰り返していただけの人間だったような気がする。教育学部のある都内の大学で彫塑を専攻したとは言うものの、毎日のように粘土を捏ねて裸婦を創るのに何も疑問を感じなかった。ただ裸婦を見ること自体が好きだったせいか、外に出て何かを見聞するようなことはほとんどなかった。従って、行ってみたいという欲望がありながらも横浜を一回も訪れはしなかったのが事実の真相である。

 

 そんな私が横浜を最初に訪れたのは、横浜美術館開館後である。概念の曖昧な「パブリックアート」に興味を持ち出し、自覚的に横浜美術館と横浜彫刻展の欲張り鑑賞のために行ったのは目的を持つ人間に成長した証であろう。その二回目は、旧神奈川県立県民ホール時代にギャラリー課長の藤島俊会さんからシンポジウムの案内をいただい頃のように思う。参加者に美術評論家の酒井忠康さんがいたので、勇んで参加したことを鮮明に覚えている。三回目の横浜来訪は、やはりパブリックアート関連の探訪会への参加のためだった。一年ほど休止していたパブリックアートフォーラムが地域美産倶楽部と名称を変更して再開しだした最初の探訪会であり、何かと縁のある藤島俊会さんによる横浜の街への案内であった。以来、藤島さんを頼って何度か横浜に行くようになり神奈川県民ホールと海を見て帰ることも多かったが、ついぞ横浜の景観を写真に納めることや高岡と横浜の関連を考えることは忘れていたような間抜けな奴だった。

 

 さてさて話を少し前に戻すが、平成十七年十一月二十六・二十七の両日は、日本アートマネジメント学会創設七年目の全国大会が横浜赤レンガ倉庫で開催されたのは、学会員なら誰しもご存知であろう。それ以前からの九月二十八日開催の横浜トリエンナーレ二〇〇五や同じ赤レンガ倉庫(写真③)で横浜市文化振興財団主催の二十六日午前のシンポジウム「二〇世紀の産業遺構がアートの工場に生まれ変わるとき」は、盛況であるばかりか内容も刺激的だった。 又、横浜トリエンナーレは、三年に一度ならず四年に一度の二回目を数えその間総合ディレクターが、川俣正に替ったが、作品の面白さや奇抜さよりも秋の好天に映えた空の青さや海の匂いが印象的で、会場に向かう途中、フランス人作家D・ビュランのたなびいた旗(写真④)が気持ちよさそうであった。しかし、全体に作品がつまらないというのではなく、私には、第一回目よりはコンパクトながらも、個々の内容は、見応えがあったように思えた。この感想は、全く個人的・主観的なものであり、「高尚」で「無責任」な芸術というものの性格上、どう批判されても私には責任が持てない。第一回の横浜トリエンナーレ作品が、暗い赤レンガ倉庫の中で永遠と映像が垂れ流されていたような印象が強く、どうしても不健全で、疲労困憊した記憶があるからだと思う。つまり、一回目より、二回目のほうが私の体には健康的だったというだけのことかもしれない。更には、横浜市と同文化振興財団主催のEU・日本創造都市交流二〇〇五は、本学会と同じ会場で二日間にわたり開催された。二十六日午前のシンポジウムは、フランス・フィンランド・イタリアなどの報告と日本の芸術文化都市を目指す京都・大阪・神戸・札幌・弘前などの報告が出され参加者の数だけでは、活況を呈していた。それに対し、日本アートマネジメント学会は、その翌日ではあるものの「今あえて問う アートの力」などの面白い企画があったにも拘らず、ひっそり閑としていたので低調だったのかもしれない。これは、横浜トリエンナーレや横浜市文化振興財団の資金力の違いか、はたまた動員力の違いなのか迷ったが、結局、アートマネジメントへの実践力の違いなのだとわざわざ高岡から高速バスで飛んできた自分を納得させてしまった。「そして、神戸」ならぬ、こうして横浜にも新しい思い出が追加されたことをお許し願いたいと書いてしまう訳である。

 

二、アート及びアーティストの力への雑感

 前述の第七回日本アートマネジメント学会は、十一月二十七日(日曜日)午前中に、セッション二として、「今あえて問う アートの力」のテーマでシンポジウムを開催した。参加者は少なかったが、興味あるテーマであった。「アートの力」という表現を私が最初に耳にしたのは、数年前の日曜の朝、NHKテレビ「新・日曜日美術館」で美術評論家の中原佑介さんがモンゴルの平原における日本人作家新宮晋作品を評して語っていたときのように思う。我がアートマネジメント学会では、「アートの力」というより「アーティストの力」だというような論調があったが、果たして、アートそのものには力がないのであろうかと疑問に思った。答えは、否である。以下具体的に考えると面白いのではなかろうか。

 

 北陸地方のある山村で、無名の絵描きが時間を見ては、時々自分のふるさとの山河を水彩絵の具で描いていた。素人から見ても上手さだけでない味わい深いものに時々仕上げていたとしよう。そして、時が過ぎその絵描きが亡くなり、形見としてその絵が倉庫の蔵に数十年も眠り続けていた。ところがある日、東京の有名芸術大学で美学や美術批評を学び春休みのために帰省していた孫が、たまたま先祖代々の蔵の片隅を物色していたら、絵の好きだった祖父の描いた何気ない風景画に強く感動してしまった。その孫は、自分の美術批評家としての知性やセンスを試すために、祖父の形見である数枚の絵を「作家名不詳」として有名画商に持ち込み、評価してもらった。予想外に画商も驚き、現代作家には無い瑞々しい感性に心揺らされたせいかその数枚の作品を買い取り、蔵の中の残りの作品にも目をとうした上で、その祖父の主要作品を集め「○×△遺作展」と銘打ち個展を開いてくれた。更に、そのことに驚いた地元新聞社やテレビ局などのマスコミが騒ぎ発て、何度となく全県に発信することで益々有名になり、作品の一部を地元美術館も買い上げるようにまでなったならどうであろうか。

 

 こういう話は、全くあり得ないことではない。日本近代美術史上、地方に埋もれながらも、晩年あるいは没後に再評価された作家の話は、近年よく耳にするところである。前記設定の作品が、無名作家が描いたものであったにしても、少なくともその孫と画商の心を捉える何か訴えるものがある水彩画ということが、まずは判明するであろう。次に、美術批評や美学を研究する孫や様々な絵画作品を見続けてきた画商にとっても、作家と離れた今もなお作品そのものの固有の価値が認識されるのではなかろうか。無名の絵描きが残したものであっても、蔵の隅に埃に塗れて眠り続けていた作品であっても、専門的に学び商品価値を見抜ける目利きなど、二人の人間の心を動かす力があったのは事実である。そして、真のアートの力は、当然なことにアーティストの力に負う部分も多いが、時代や作家を超えてアートそのものに価値や力があるからこそ、アーティストとしての存在の有名性とは無関係に、否、作品がアーティストの手から離れてこそ、評価されるのではなかろうか。従って、アーティストの力が、見る側を魅了する作品に仕上げても、時代や作家の姿勢や作家を取り巻く環境によりアートの力が作家を中心とする環境により眠り込まされてしまい、社会から認知されないことも多いのは、当然である。不運なアートは、訴求力を持ちながらもマネジメントできる支援者がいないが故に、焼却されることでこの世から抹殺されてしまうことも有り得る訳である。

 

つまり、作品自体が個々人に訴える力、あるいは作品自体の固有の効力や訴求力又は作品の価値を「アートの力」というのではなかろうか。それを創り上げる力を「アーティストの力」というのであろう。但し、同じアーティストによる同じ作品による「アートの力」でも、見た側の感動や驚異性への程度の差で差異感が生じ効力が違ってくるのも当然である。極論だが、同じ作品の同じ受容者でもその日の気持ちによって作品の効力・価値が違ってくるのも「アートの力」の持つ特性である。それ故に、受けとめる側の能力によっては、アートはその力を最大限に引き出されたりその力を封じ込められたりもする存在ということになる。あるいは、現代アートのように一つ一つはスケールが小さくあまり見栄えも感動もしないものが、ある特定の場所でその他の作品や人間との関係性の中で問い直され、作品と場と人間が総合的に関ったときにその力が何倍にも増幅するような作品もあるような気がする。そういう作品を創り上げるのが現代的な「アーティストの力」になるのではなかろうか。加えるならば、一枚の絵画といい一体の彫刻といい単体としての「アートの力」もあるが、「アートの力」と「アーティストの力」が複合し、その作品やその作家をその社会との関係で有機的に繋ぎ止め支援活動を続けようという人間や組織、更には、その関係性に変容を加えることで新しいアートの力を引き出そうと強い信念による人間や組織の力が加わったときに「アートマネジメントの力」が介在すると考える。つまり、「アートの力」と「アーティストの力」に「アートマネジメントの力」が純粋に加わるならば、そのアートは、社会性を獲得しその社会の中で生かされてゆく方向が広がることになる。

 

三、アートマネジメントの力及び(芸術)文化政策学・芸術支援学への雑感

 横浜赤レンガ倉庫での第七回日本アートマネジメント学会二日目、アートの力に関するシンポジウムで、「アートマネジメントの力」なる発言があった。私は、生意気にも、「アートの力」と「アートマネジメントの力」の定義をしてみせ、司会進行者に「『アートの力』を認めないなら、アートマネジメント学会の存在も意味がない」旨の発言をした記憶がある。そのときのメモを今見ていると、「アートマネジメントの力」を三つの側面から定義していた。その一、「アートやアーティストの力を補強する力」。これこそが、本来のアートマネージャーやアートディレクターが目指すべき本来のアートマネジメントの力であろう。その二、「アートやアーティストの力を制約する力」。これは、作家や作品の価値や力に対する認識の違いから、マネジメントする側が作家の意思に反して、一定のブレーキをかける力である。その三、その二以上に、「アートが、人間や場と公的に関ったときに成立するその方向性を強制する力」。つまり、アートの力及びアーティストの意思や表現性を無視あるいは方向性を強引に変えてしまう力であり戦時中の思想統制や表現への弾圧などを含んでくることになる。 日本の現状では、横浜トリエンナーレや新潟県十日町近郊の大地の芸術祭などを見聞すると、「アートの力」もさることながら、その力を引き出す「アーティストの力」やプロジェクト全体の中で「アーティストの力」をさらに支援するコーディネータあるいはアートディレクターの力が事業の成否を決めるように思えた。従って、日本アートマネジメント学会もアートマネジメントに関する理論的な力をつけるのも当然だが、表現力のある作家やプロデユース力のある理論家の更なる参加を望んでしまう。

 

 昨今、東京芸大の根木昭さんが「(芸術)文化政策学」を提唱したり、筑波大学大学院人間総合科学研究科が「芸術支援学」などの構築を志向している。「(芸術)文化政策学」は、その学問体系の中にアートマネジメント論を吸収しているように見える。「芸術支援学」も従来の美学・美術史に加え、芸術学や美術館学に芸術教育学などを加え、アートマネジメントとの複合概念も共有しているように見える。これらの学問やそのための実践活動が現実的に実を結んだら、日本のアートの状況とこの学会の有様が面白い存在として期待されるのではないかと一人妄想を膨らませてしまう。       (高岡第一高校   松尾豊)

 

(注1)『企画展 高岡銅器産業を築いた商人たち』(高岡市立博物館図録、一九九八年)

  (写真①・横浜市内の馬車道商店街)

 

(写真②・横浜市内の中華街)

(写真③・赤レンガ倉庫1号館の入り口近辺)

 (写真④・D・ビュランの棚引いていた旗作品の風景)

 

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