18歳の4月、不勉強と低学力が祟り(高校では成績は上位のほうだったが、毛頭進学は考えず、テニス馬鹿をしていた。新潟の従弟に勧められて初めて進学を決意したが、兄も姉も中学卒の家庭環境の中で道楽な次男と思われたらしい。)新聞配達をしながら受験勉強をすることになり尼崎市に向かった。そこで毎日新聞の読者として知り合ったのが、後にパブリックアートの作品的提示と理論で日本のリーダー的存在になった環境造形Qの1人小林陸一郎先生(下記写真=伊丹市立美術館「環境造形Qと小林陸一郎展」での小林先生が私と出会った頃の木彫作品)がいた。それから間も無く、週1回の夜は「あるわん造形研究所」なる所でデッサンを教えていただき、苦しい中での楽しい一時を過ごした。
結局尼崎での新聞配達も実らず、低学力の私を受け入れてくれたのが静岡大学法経短期大学部だった。静岡では、2年で卒業・就職の予定が、4年制の連中と美術部で遊ぶなかで、美術系の能力に確信が持て、結局2月に退学し再受験し、運よく東京教育大学教育学部芸術学科彫塑専攻に合格した。最後の卒業生として20歳の4月に上京した訳である。
しかしながら、そこでもやはり、私は横道にそれてしまった。彫刻の勉強もろくにせず、別な勉強にのめりこみ、石膏取りもまともに覚えず、そのせいか、彫塑専攻の5人は、卒業制作展もせず卒業した。東京の4年間は、私にとっては、モラトリアムな時間が流れ、この時代こそが今の私を規定してしまっている感を覚えることがある。