1978年3月、東京教育大学最後の卒業生として学舎を発ち、4月には新潟東工業高校の非常勤講師で美術の授業を12時間持つようになった。荒れた工業高校という割には、生徒と楽しくテニスをしていた思い出が多い。
当然美術教師になろうと帰郷したわけだが、採用試験は、1年目は合格し不採用。2年目は2次試験で落とされ、3年目は、1次試験で不合格を突きつけられた。「新潟県教委は、採用しない」と覚悟し、81年3月には新潟東工業高校を辞し、特別養護老人ホームに寮父として就職(正式採用)を決めた。
しかし、その3月に変な事件に遭遇し、その老人ホームも82年1月には退職した。直接的には、村松高校時代の県教委の指導主事に「今度は採用されると思うから、佐渡女子高校で産休代用をやってくれ」と言われたから。それを信じて老人ホームで知り合った妻も辞めさせ、佐渡で新婚生活を始めた。まるで騙されて駒のように配置されたのが事実だが、新婚の2人には、島流しの島・佐渡ではあったが、夢いっぱいの楽しい生活だった。
だが、結局採用にならず(教員採用の全国模試では、美術では1番だった。)失望のうちに次の産休代用講師校・新潟市立明鏡高校に赴任した。
妻の母校で定時性独立校だったが、貴重な体験をさせていただいた。1番の思い出は、美術部顧問以外にも、軟式庭球部の顧問もさせられ、1年目で県の団体と個人の優勝、及び北信越大会の団体優勝をしてしまったこと。国体選手の前任者が優勝できなかったことを1年で成し遂げた嬉しさは、今も私の胸に誇りとともにまだ刻まれている。
その後、新潟市立濁川中学・新潟県立新潟西高校・県立新潟北高校等に勤務し、かれこれ9年新潟県教委に貢献した。(下の写真は「大地の芸術祭」風景:左は第1回・右は第3回作品)